ex-1-1


ドラクロワ邸には、今日も雨が降っていた。

昼間だというのに、暗い空。
代わり映えしない外の光景を眺めるのに飽きて、テティスは窓のカーテンを閉めた。





テティス「……?」

閉めきる前、正門に人影が現れたことに気づいた。
少しだけカーテンをまくって確認する。

豪商として名高いドラクロワ家の所有する屋敷ではあるが、来客があることは珍しい。
それは彼女の色のない日常に何か変化をもたらしてくれるものかもしれないと、微かな期待を呼び起こす。
特に、ここから一歩も出たことのないテティスにとって、来客とは外界そのものだった。



彼女は玄関の様子を伺うため、そっと部屋を後にした。
玄関ホールは2階まで吹き抜けになっていて、下の様子を上階のテラスから覗くことができる。
いつも通りならば、父は来客と娘との接触を快く思わない。
こっそり様子を伺うにとどめるべきだろう。そう判断して、彼女は2階からホールを見下ろした。

来客は父の呼んだ来客にしてはかなり若い印象だった。
それに、彼の浅黒い肌は目新しかった。話に聞くダンマーの若者だろうか。
父の他種族嫌いを反映してか、使用人に至るまでアルトマーばかりのこの屋敷。
いつも重苦しいこの空間で、彼の周りだけ空気の流れが違うようだった。

しばらくして1階の奥から父が出てきて、彼を迎えた。

「貴様のようなやからがこの屋敷の敷居を跨ぐことができることを光栄に思うがいい」

父は自分で呼んだ相手にも関わらず、あまり彼の事を快く思ってはいないようだった。
だが、そんな父の態度にも彼は柔和な笑みで返した。

「もちろん光栄ですとも。ただあまり長居しても喜んで頂けないかと存じますので、早々に商談へ移るのがよろしいのでは」

「フン、そうだな。この先に応接室がある。そこで話をしよう」

商談というと、彼は商人なのだろうか。
護衛も付けないような商人をわざわざ父が出迎えるのは珍しい。

そのまま父は彼を連れて応接室に入っていき、ドアが閉ざされた。
普段ならこのような場合、諦めて部屋に戻るところだ。
盗み聞きなどというはしたないことをしている所を見つかったらまず叱られる。
だが……今日はどうしても、好奇心を抑えることができなかった。

テティスは見つからないよう周囲に気を配りながら、1階に降り、応接室の閉まったドアに耳を寄せる。
いつもより苛立たしい父の声が聞こえた。

「それではこの屋敷を担保にせよと言うのか、貴様は!」

「ドラクロワ卿、失礼を承知で申し上げますが貴方の資産で担保になっていないものはもう、ここしかないんですよ」

「しかし、しかしだな……」

「他の金融業者ではもう貴方に融資する所はない、そう伺ったはずですが。確かに僕からは融資致しますが、それでも何の保証もなく身銭を切ることはできませんから」

「ここを失ったら、我が一族はどうなるのだ……」

「返済が滞らない限り、そのようなことにはなりませんよ」

「そんなことは分かっておる!」

残念ながら、会話の内容を聞いて理解できないほどテティスは無知ではなかった。
父は相当な借金を抱えているのだということ。
彼はこのサマーセット島では悪名高い金融業者のひとりであること。
そして今日彼を呼んだのは、彼からこの家を失うかもしれない借金をさらに申し込むためなのだということ。

父は、自らがそんな窮状にあることを全く娘に伝えてはいなかった。
だが、思い返せば確かに心当たりはあるのだ。

高級食材を用いた料理を最近見かけていなかったり。
軽い粗相をしたメイドを首にしたまま次の者を雇っていなかったり。
庭の植木の手入れをするため、最後に植木職人を呼んだのはいつだったか。



テティスはその場を離れ、部屋に戻った。
頭の中がぐらぐらしていた。
私は、私の知らないところでこの生活を失うかもしれないのか。
今まで退屈でやりきれないと思っていた毎日だが、これを失ったらどうなるのだろう。

いつもは本を読む。
このドラクロワ邸には、先祖の代から集められてきた書物が無数にあった。
退屈な毎日に華を添えてくれるのは、想像の世界や論理の世界。魔術の成り立ちや秘境の記録。
多彩な書物が彼女の孤独をずっと癒やしてくれていた。
だが今日は、本を開いてもまるで頭に入ってはこない。



しばらくして彼は屋敷を後にしたようだ。
父は夕食の席で上機嫌だった。それも、不自然なほど。
彼との”商談”がうまく行ったのだろうか、それとも借金を隠す後ろめたさを誤魔化してなのか。

テティスにはまだ、それを父に聞く勇気などなかった。
『あれをするな』『これをするな』『行儀よくしろ』
それは事あるごとに両親に言われる呪縛。
良家の子女は、慎ましくあるべし。
彼女に求められるのは、いつもそれだけだった。





その日を境に、彼は時々屋敷へとやってくるようになった。
父も決していい顔はしていないが、彼が屋敷内をある程度見て回ることを認めている様子だった。

テティスはというと……知ってしまった事実をどうにもできないまま、変わらぬ毎日を続けていた。
そして、彼を見かけるたび接触しないで済むよう、できるだけ避けていた。
来客と娘が話しているのを父に知られたくないのもあったが、それよりも……
彼と話したら、自分が借金について知っていることを悟られてしまうかもしれないと感じたから。





久しぶりに雨のあがった日。
テティスはまだところどころに水たまりが残る庭に出ていた。

手入れされていない花壇。
ところどころ、雑草が伸び放題になっている。
父はこれを見てどう思っているのだろう。

なんの気なしに、引っこ抜いてしまおうとかがみこみ、手を伸ばした時だった。

「いけませんよ」

男の声がして、とっさに手を止める。
彼だった。

気づかなかったことを後悔したが、逃げても変に思われるだろう。
それと悟らせないよう、そっと目をそらす。

「その草は、見た目よりも根が広く深い。下手に抜くと他の花が傷んでしまいます」

黙っているテティスを気にした風もなく、彼は近寄ってきてかがみこむとその草を見つめた。

テティス「……なにか役に立つような草でしたでしょうか」

テティスの知識にこのような薬草はなかった。
だから雑草だと判断したのだが。

「いいえ。人の役に立たないからそういうことも知られてはいません。本にも載りません」

彼は指先で雑草を軽くつつく。

錬金術士は薬になる草を探し、調べて、本を著します。役に立たない草の、それも根の特徴など覚えてはいません。むしろこういうことは植木職人の知識でしょうね」

雨上がりの水滴が、葉先から地面へと落ちた。

「人は自分の役に立つか否か、それ以外は気に留めにくいものです。それが他の誰か知らない人の役に立っていたのだとしても……自らの邪魔になるようならば、それはこの草と同じ。取り除くことを誰もためらわない」

それは、彼の仕事のことを重ねて想起された言葉なのだろうか。

「でも、本当はこの世界に無駄なものなど何もないんですよ。この草も、僕も、そして貴女も。必要とされていないのは、相手の事情に過ぎない。いつか、求められる時が来ます」

そこまで言うと、彼はすっと立ち上がってその場を後にした。
恐れていた話題は出なかった。
だが、彼の言葉は妙に耳に残っていた。

少しして気を取り直したテティスが立ち上がってふと草に目をやる。
雑草の影にちいさな虫が動いていた。





それから少しずつ、少しずつ……
ドラクロワ邸は在りし日の輝きを失っていった。

壁に掛けられた著名な画家の絵、
重厚な壺の乗った台座、
ドゥエマーの精巧な時計、
それらはみな、姿を消した。
何人も居た屋敷の執事は、最後の1人を残して皆いなくなった。
メイド達も減り、掃除の行き届かない場所が目立つようになった。

さすがに母もこの状況を見過ごすことはできなくなっていた。
時折、父と母のものと思われる言い争いの声が聞こえるようになった。
しかし、テティスが出て行った時の両親の反応はいつも変わらない。

「テティス、おまえが気にすることはない。おまえに何も面倒なことは起こらない」

「これは大人の問題だから、まだ子供のおまえには出来ることはない。部屋に戻りなさい

子供と言われても納得などはしていなかったが、そう言われると部屋に戻るしかない。
両親は娘にこの問題に関わってほしくないだけなのだ。
娘にそんなことは求めていない。

だがテティスには、それでもできることがあった。

父の書斎をひそかに調べて、すでに知っていた。
借金を完済する見込みはなく、利息だけをやっとのことで払い続けてきた父に、この屋敷を守る力はないのだと。
商才に欠ける父にはドラクロワ家の没落は防げないのだと。
そして、借金の書類、貸主の欄には決まって1人の名前のみが記されていた。

母の装飾品も、
豪奢ごうしゃなドレスも、
優雅な毛皮も、
次々と姿を消すようになった。





そして、その日がやってきた。





朝、届けられた手紙を書斎で読んだ後、家族の前に姿を現した父の顔からは血の色が失われていた。
そして、母と娘に告げた。

「すまぬ……この屋敷におれるのも今日限りだ。もう住み続けることはできない」

そう言った父は、いつもの威厳を失い抜け殻のようだった。
母はそのままくずおれ、嗚咽おえつを漏らす。
テティスは……ただ立ち尽くしていた。

そのまま誰も動けずにいると……そこに、家族のものではない声がかかった。

「意気消沈されているところ申し訳ないのですが、落ち着き次第明け渡しの準備をしていただけますか」

彼だった。



青から、赤へ。

「貴様……貴様にさえ、借りなければ……貴様さえ居なければ……!!」

彼をにらむ父の形相は、次第に憤怒ふんぬのそれへと変わっていった。

「貴様が全て狂わせた……我が事業も、我が土地も、我が屋敷も、全て!! 貴様が来てからおかしくなったのだ!!」

母は、その父の剣幕に震えおののいていた。

「貴様が我々一族の全てを奪った……奪ったのだ……!!」

今まで家族に見せたことのない、そしておそらく自分でも見たことのないであろう顔。
憎しみのあまり、狂気を孕んだ顔。
父は宣言した。

「貴様にくれてやるくらいなら……この屋敷ごと、貴様を燃やし尽くしてくれるわ!!!」

父は怒りに任せて火球ファイアボールを詠唱する。
自分の妻のことも、娘のことも、父の目には映らない。

魔法が放たれた先、彼は避けようともしていなかった。
炎に照らされた彼の顔には……悲哀の色。

轟音ごうおんが辺りに響き渡る。
爆風で窓ガラスが割れる。

だが、炎は広がらず、爆発の中心には……
魔法障壁マジックシールドを掲げた、テティスの姿があった。



「!? な、なぜだテティス! なぜ、なぜ父の邪魔をする!?」

うろたえる父。
テティスは、父を前にして不思議と落ち着いていた。

テティス「お父様」

その声は、静かながらその場の皆に響く。

テティス「お父様は、ドラクロワ家の名ごと、この屋敷を焼き払うおつもりですか」

「な……!」

テティス「私はこの家のために融資してくださった方に、恩を仇で返すような真似はできません。これ以上ご迷惑をかけないようにするのが筋ではありませんか。それを破壊魔法で返すなど……賊に成り下がるようなものでしょう」

父の彼に対するそれは正当な怒りではなかった。テティスは知っていた。
信用をなくした父に、彼は破格の好条件で融資を行っていたこと。
彼の設定した利息は、アルドメリの法を犯すような暴利ではないこと。
最後まで屋敷を失わずに済むように、彼が動いてくれていたことも。

だが父は、その責を彼になすりつけるしかなかったのだ。
それはもしかすると、父が彼に持つ偏見によるものが大きかったのかもしれない。
それほどに、父には憎しみの対象が必要だったのだ。

父の前でテティスがこれほど多弁になるのは初めてのことだった。
父は面食らいながらも、反論を試みる。

「しかし、しかしこやつは……金貸しなのだぞ!? こやつのせいで破滅した人間は数知れぬのだ! それを、なぜかばう!?」

テティス「最初から相手の破滅を願って金銭を渡す輩などおりません。返ってくる見込みがないのに融資するなど自ら損を掴むようなもの。そもそも、融資を望んだのはお父様ではないのですか?」

「それはそうだが、しかし……」

テティス「自らの落ち度で怪我をした者が治癒師に治癒を依頼したとして、力及ばず亡くなったなら、責められるべきは治癒師なのですか? お父様が仰るのはそういうことです」

黙りこんだ父。
その憎しみが理不尽なものであることを、自覚してはいたのだろう。
テティスは、彼に向き直り頭を下げた。

テティス「父の身勝手で貴方様を危険に晒してしまうとは。本当に申し訳ありませんでした」

彼は、やはり柔和な笑みで返した。

「気になさらないで大丈夫ですよ。こういう事には慣れているし、なにより貴女に守って貰えたから」

テティス「お心遣い、感謝します」

そして、振り返り後ろの父に聞く。

テティス「お父様、どうしてもこの屋敷に留まりたいとお望みですか?」

「な、何? 当たり前ではないか」



テティス「私がその方法を知っているとしたら、どうなさいますか?」



それは、その場の誰もが予想していない言葉だった。
あまりのことに、彼女以外の誰もが目を丸くする。

「……なん、だと?」

テティス「私にこの融資の返済、任せて頂けませんでしょうか」





次の日。
ドラクロワ邸の玄関に現れた彼の隣には、荷造りを済ませたテティスの姿があった。

「本当にいいんですか?」

テティス「はい。もう決めたことですから」

玄関のドアを開くと、久しぶりの晴れ。
テティスは目を細めて、正門を見やる。



結局、ドラクロワ邸は父の元に残った。

屋敷には、まだ返済に充てられるものがあったのだ。
それはテティスが見つけて保管していた、大量の希少本だった。

だが、それでも全額返済には程遠い額。
テティス自身が保証人となり、彼の元で働いて直に返済を続けるということで話がついた。

もちろん、両親には反対された。
だが、具体的な金額を挙げながら返済までの道筋を提示する彼女に、代案を出せる者はいなかった。





テティス「それに、残念ながら父には満足な返済能力がございません。私でなければダメです」

ばっさり切り捨てるテティス。

「手厳しいね……」

苦笑いしながら、彼は続ける。

「でも、両親と離れて暮らすことに心配はないの?」

テティス「一緒に住んでいても、娘の成長に気づかない親ですから、離れても変わりはないかと」

やはり容赦のない評価だった。
そして、彼女は門に手をかけながら続ける。

テティス「それに、私はもう、貴方のものになるつもりで来ましたから」

「え?」

テティス「昨日の返済計画には穴があります。私が提示した通りの賃金を払って頂けるかどうかは貴方次第。返済が滞るかどうかも貴方次第。ですので私を奴隷のように酷使しようと貴方の意のままです。私はもう何をされても貴方に逆らえませんので」

「おやー? 君が立てた計画なのに、なんだか悪党になった気分がしてきたぞ」

初めて踏み出す屋敷の外の世界。
何事もなく一歩を踏み出し、彼女は言った。



テティス「お手柔らかにお願いします、私の主」